故岡本太郎も絶賛した謎めいた縄文土偶の美!

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縄文土偶に秘められた謎の美

乙女の祈り像

出典:mulligan3i

この謎を解くのには、現代社会ではタブー視されている〇〇に注目するのが一番の早道です。

八戸市の縄文館で観た国宝合掌土偶ーヴィーナス像の〇〇がなぜ露わになっているのか?ヴィーナスの誕生やミロのヴィーナスでさえ下半身は隠されています。

 

現代社会においては、〇〇はタブーなのか知りませんが、縄文社会においては神聖なものだったのかも知れません。

不思議に思っていたら、その神秘の秘密が最近、わかったような気がしました。

それがタオコード(性の5次元領域から迸る秘密の力)という本です。

 

タオコードという本によると

著者は千賀一生という人で、人類の原型的舞踏「わの舞」を全国に展開している人物です。

踊る運動によって、体によって宇宙(神?)につながる方法を教えている人です。

わの舞

出典:goo25715

著者は中国の山奥に実在した老子の子孫と言われる村で体験した事実や感じたことを赤裸々に書いています。

私が思うには、この村はおそらく日本の縄文時代の村と同じものだったのではないかと言う気がします。

なぜなら、老子は日本で言うと縄文後期に生まれ、日本にもきたとされる人物で、太古の文化を愛した謎の人物だからです。

 

タオコードには次のように書いてあります。

老子は、本当は思想を作ったわけではない。文明化により心の文化が失われる中で、ひたすら太古の文化(縄文文化?)をそのまま守ろうとした。

つまり、「老子は日本の縄文時代から学んだことを、世によく知られる詩文の裏に秘境的教えを記述し、それを子孫に伝え、実際、そういう理想郷を中国の山奥に作って縄文思想を守ったのではないか?」ということです。

 

老子書の裏の意味は命の螺旋?

老子書の裏の意味は、ずばりセ〇クスについて書かれたものだと著者は断言しています。

老子は、女性〇の奥の奥に万物の根源にある超越次元を見ていたのです。

言い換えると、その奥に命の螺旋を見ていたと言えなくもないです。

 

だから、縄文人が女性〇も男性〇も神そのもの(宇宙)だと考えていたとしても、不思議ではないのです。

言霊学的に考えると、女性〇は母音、男性〇は父音、そして母音と父音が出会って子音が生まれると考えることもできます。

 

老子の言うタオの世界は5次元世界そのものです。

老子は5次元世界をセ〇クスの中に垣間みたのです。

だから、〇〇は現代人のように卑しくて隠す対象でなく、神だから崇める対象なのです。

 

タオコードの一文紹介

出典:ameblo.jp/peroko-0221

タオコードの最も印象に残った一文を紹介します。

これは老子が実際記した言葉です。

道の道とす可(べ)きは常(つね)の道に非(あら)ず、名の名とす可(べ)きは常(つね)の名に非ず。無名は、天地の始めなり、有名は、万物の母なり。故に常に無欲にして以て其の妙を観(み)、常に有欲にして以て其の徼(きょう)を観る。此(こ)の両者は、同じ出にして名、異にす。同じく之を玄と謂(い)うも、玄の又(ま)た玄は、衆妙の門。

妙(みょう):精妙な超越世界

徼(きょう):粗野な現実界

玄(げん):深い穴のような深遠な世界 不可視の領域 ここでは見えざる女性器の穴の中を暗示

玄之又玄(げんのまたげん):万物を生成する究極の見えざる次元

衆妙(しゅうみょう):万物の根源にある超越次元

著者が解説している裏の意味は次の通りです。

私は今から性の秘密について語ろう。かといって、あなた方がよく行う、うつろいゆくセ〇クスについて語りたいわけではない。

究極の性とは、この宇宙を生み出した、名前すらない本質だ。あなた方の語るセ〇クスは、その本質の疑似的表れにすぎない。

だから、情欲的次元を超えて、性なるものの本質を観るんだ。あなた方が知る粗野な性の喜びを超えた、はるかなる至福世界がその奥にはあるのだよ。

あなた方はその一時のセ〇クスにさえ不思議なほどの魅力を感じるというのに、そこに秘められた、その何倍もの深遠世界に、どうして気づこうとしないのか。

それこそが究極の性、すなわち、森羅万象を抜き超えた真の領域なのだ。(私はその究極の愛へと至る道をこれから語ろう)

これは5次元、つまり空の世界を描いたものです。

その世界を老子はセ〇クスの中に見出し、自分の子孫に言い伝えとして残したのではと私は思います。

 

青森の大湯環状列石のストーンサークルも観ましたが、確かに古代の日時計には間違いないと思うんですが・・・。

中心の石柱は見ようによっては男〇と言えなくもないです。

大湯環状列石のストーンサークル

出典:kankousiseki

この形を著者が体験した村の祭りと重ね合わせて考えると実に興味深いです。

祭りの時には男〇の石柱のまわりを、男女が交互に並んで円形にとりまく。そんな中で私は巨大な一体感に包まれた。人との一体感だけではなかった。無数の木や草のすべてが生きているということが、肌でわかる。・・・それは確かに一種のエクスタシーだった。

出典:izumihara7673

日本の男〇の石柱は明治新政府によってそのほとんどが壊されてしまいましたが、地方には未だに残っているところがあるのです。

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