古事記の驚くべき発見!
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古事記の岐美二神の御子(みこ)生みとは?
天地(あめつち)のはじめの「布斗麻爾(ふとまに)」(空)を、50音図として把握し、すべてここを出発点とする古神道の捉え方には正直驚かされました。
布斗麻爾は上のような五十音図で表され、五十音そのものが生命の知性の基本である原理原則なのです。
真理の把握表現方法としてこれ以上に正確にして簡潔なものはないのです。
でももっと驚かされたのは、伊邪那岐(イ)、伊邪那美(ヰ)の御子生み、国づくりのところです。
生命の始原の創造的意志活動の原理消息を「古事記」は男女の結婚の様態になぞらえて説いているのだそうです。
しかも、人間に顕れ、人間に自覚され、人間の内容と仕業(しわざ)として活動している生命の知性の真理の一つ一つを神又は命(みこと)と言いいます。
つまり、人間の存在とは無関係に超絶して宇宙に存在する如く考えられる不可解な神秘的な大きな何者かを「古事記」が神と称しているのではないということです。
リアルの宇宙の働きそのものを神と称しているのです。
少しだけ古事記に書いてある真の意味を読み解きますと・・・
汝(な)は右(みぎり)より廻り逢え
ミギリは身切りの義で、女陰(にょいん)の形(かたち)、母音(アオウエイ)のことである。伊邪那美命(いざなみのみこと)は母音として創造に参与せよと云う意味。
我(わ)は左(ひたり)より廻り逢はむ
ヒタリは肥垂(ひた)りの義で、男根の形、父韻(ヒチシキミリイニ)のことである。伊邪那岐命は父韻として創造に従事するという意味。
女人(おみな)を事先立ちてふさ(良)はず
子音を生もうとして母音を先に発音し父韻を後にすると、a・kではカという子音にはならない。k・a(キア)で初めてカとなる。
だから、古事記には伊邪那美命が先に立って右に廻ったら、水蛭子(ひるこ)を生んだと書き表しているのです。
つまり、水蛭子(霊流子)は蛭のように骨がないことですから、霊(ひ)が流れて実相が現れない(現実化しない)ということです。
でも、伊邪那岐命が先に立って左に廻ったら、国づくり、つまり文明の創造が順調に進んだとあるのです。
以上のことは宇宙の基本原理です。