古事記は日本の神話を描いた古書ではなかった(驚

私は下の本を読むまでは、古事記は過ぎ去った大昔の日本の神話を描いた古書とばかり思っていました。

ところが「言霊百神」という本には、「天地(あめつち)は実際に今、此処(ここ)で絶えず剖判(ぼうはん)し開闢(かいびゃく)しつつある」と書いてあります。

つまり、古事記は過ぎ去った大昔のことについて書かれた神話ではなく、現実の”いまここ”の人間の知性活動のことについて書いてあると言っているのです。

 

言い換えると、忽然(こつぜん)として森羅万象(しんらばんしょう)を現出する「中今」について書かれた科学書だということです。

そのことがわかるためには、百神に秘められた謎を読み解かないと、何回熟読しても神話としか思えないです。

それが古事記です。

おそらく「言霊百神」を一度読んで頂ければ、あなたの世界観・宇宙観はまるっきり変わってしまうと思います。

古事記の岐美二神の御子(みこ)生みとは?

岐美二神の御子(みこ)生み

出典:yachiyoshiaikikai.sblo.jp

天地(あめつち)のはじめの「布斗麻爾(ふとまに)」(空)を、50音図として把握し、すべてここを出発点とする古神道の捉え方には正直驚かされました。

布斗麻爾は上のような五十音図で表され、五十音そのものが生命の知性の基本である原理原則なのです。

真理の把握表現方法としてこれ以上に正確にして簡潔なものはないのです。

 

でももっと驚かされたのは、伊邪那岐(イ)、伊邪那美(ヰ)の御子生み、国づくりのところです。

生命の始原の創造的意志活動の原理消息を「古事記」は男女の結婚の様態になぞらえて説いているのだそうです。

しかも、人間に顕れ、人間に自覚され、人間の内容と仕業(しわざ)として活動している生命の知性の真理の一つ一つを神又は命(みこと)と言いいます。

つまり、人間の存在とは無関係に超絶して宇宙に存在する如く考えられる不可解な神秘的な大きな何者かを「古事記」が神と称しているのではないということです。

 

少しだけ古事記に書いてある真の意味を読み解きますと・・・

汝(な)は右(みぎり)より廻り逢え

ミギリは身切りの義で、女陰(にょいん)の形(かたち)、母音(アオウエイ)のことである。伊邪那美命(いざなみのみこと)は母音として創造に参与せよと云う意味。

我(わ)は左(ひたり)より廻り逢はむ

ヒタリは肥垂(ひた)りの義で、男根の形、父韻(ヒチシキミリイニ)のことである。伊邪那岐命は父韻として創造に従事するという意味。

女人(おみな)を事先立ちてふさ(良)はず

子音を生もうとして母音を先に発音し父韻を後にすると、a・kではカという子音にはならない。k・a(キア)で初めてカとなる。

だから、古事記には伊邪那美命が先に立って右に廻ったら、水蛭子(ひるこ)を生んだと書き表しているのです。

つまり、水蛭子(霊流子)は蛭のように骨がないことですから、霊(ひ)が流れて実相が現れないということです。

でも、伊邪那岐命が先に立って左に廻ったら、国づくり、つまり文明の創造が順調に進んだとあるのです。

以上のことは宇宙の基本原理です。

 

万物はスピンしている

出典:ameblo.jp/vipassanar

万物を電子レベルで視ていくと、すべてのものがスピンしていることがわかります。

右廻り、左廻りにスピンしているのです。

古神道の世界では、この電子のスピンの違いが男女の違いだそうです。

+-の違い、陰陽の違いと言ってもいいかも知れません。

 

古事記の岐美二神の項では、このことを伝えているような気がします。

地球レベルで見ても、低気圧は左廻り、高気圧は右廻りです。

 

この世の男女が惹かれ合うのも、+とーが引き合うのだと考えるとわかりやすいです。

そして、男女の”むすび”で初めて子供が生まれる。

古事記にはこのことを「吾(あ)が身の成り余れる処を、汝(な)が身の成り合わざる処に刺し塞ぎて」と表現してあるのです。

つまり、父韻を母音の中に刺し塞ぐようにして発声することを言っているのです。

例えば、キア(k・a)=カ、キエ(k・e)=ケ、キオ(k・o)=コ、キウ(k・u)=クのようにカ行の音が発現すると言っているのです。

 

大昔、縄文人が土器に螺旋文様を刻んだのは、スピンが宇宙の法則だとわかっていたからだと思います。

現代社会においても、このことをはっきりと認識することが、次の文明創造に繋がっていくのではないかと思います。

 

姉の50日祭より

つい先日姉の50日祭を終え、納骨祭も無事済ませました。

これは姉が亡くなったとき閃いたのですが、とにかく骨を収める墓も一新しようと思いました。

写真のお墓がそうです。

家紋の中心に睦という字を入れ、その上下に右巻き、左巻きの渦巻きを入れました。

睦という字は、私の姉の名前からとったものですが、先祖代々のお墓にはいろんな人が収まっていますから、それら遠津祖神(とおつおやのかみ)が仲睦まじくという意味も込めて、睦という字を入れたのです。

そして、上下の渦巻きは縄文土器に倣って、渦巻き文様を入れました。

 

天照大御神も拝む対象ではない

天照大御神

出典:cookiesobk.iaigiri.com

神道では拝むのはおろがむ行為で、愚か者が神に対する態度だと「言霊百神」には書いてあります。

神や仏を客体として対象としておろがむ態度は幼稚な魂を教育指導するための仏教やキリスト教の方便だというのです。

そしてその後日本でも、神社神道が興って仏教のやり方を真似て民衆に臨んだ結果だというのです。

だから、天照大御神と言えども拝んではいけないのです。

神社に行ったら本当は神様にお願いするのではなく、自分の意志表示(祈りを捧げる)をするのが正しいやり方です。

 

神道の眼目であり開眼である天照大御神、月読命(つくよみのみこと)、須佐之男命(すさのをのみこと)と云う三柱(みはしら)の神についても次のように書いてあります。

三柱の神とは人間自体であるそれぞれの思想内容と体系展相を具備した形而上の麻爾(まに)の原理であって、単に日本人の祖先とされる理念的、神話的、歴史的存在でもなければ、民俗の信仰の対象としての絵姿でもない。またその実態は・・・自己から分裂遊離して存在する如くに見える超越的な神秘的な神霊或いは心霊などでもないのである。

ここの点は、いわゆる宗教家でもない左翼思想にかぶれたことのある私でも心から納得のいく説明です。

 

高天の原とエデンの園が同じだったとは?

エデンの園

出典:ja.wikipedia.org

興味深いのは、高天原とエデンの園は「言霊百神」には同じであると書いてあったことです。

エデンの園とは、写真のような地上の楽園として描かれているので、今まで高天の原と同じだとは思ったこともなかったですが・・・・。

 

神道大祓いでは先天に則った言葉の道理を破壊する「畦放ち(あはなち)、溝埋め」等の須佐之男命の暴挙を称して天津罪(あまつつみ)と言います。

アダム、イヴが智慧の樹の実を食って生命(いのち)の樹の葉の道から遠ざけられた事はすなわち此の神道の天津罪に当たるみたいです。

一部だけ紹介しましたが、どうもキリスト教の教えのもとは、古神道みたいです。

だから、「言霊百神」が理解できれば、キリスト教の謎もすべて解き明かすことができるというワケです。

 

ここではほんのさわりだけしか書けませんので、興味のある方は是非「言霊百神」を勉強してみてください。

おそらく古事記に秘められたその謎の解き方にびっくり仰天、Life Changeすること間違いなしです。